投稿者「oraka」のアーカイブ

記憶の中の、たねうさぎ

学生だった頃か、もう少し前だったのか後だったのか。いつだったかはっきり覚えていない記憶の中に、たねうさぎはいます。

昔、椿の種をひとつ包みこむようにしながら、毛糸をうさぎのかたちに編んだことがありました。紡いだ糸だったかどこかで購入した糸だったかも忘れてしまったけど、ゴワゴワとしていて、中綿も何もなく、ただ椿の種がひとつ入っているだけのうさぎ。指の先ほどの大きさで、目も鼻もない。しっぽのようなふくらみから胴体、顔らしきもの、少しのびた2つの耳。同じ毛糸で編んだ鎖編みの紐がついて、ストラップになっていた。

可愛いとは言い難い存在。可愛くないところが可愛い存在。

そんなたねうさぎは、私の姉がもらってくれた。たねちゃんと呼んで携帯電話のストラップにしていた。無機質な携帯電話に素朴なたねうさぎは似合わなかったけど、それがたねうさぎらしくて良かった。同じようなものを23個作ってみたけれど、たねうさぎのようには作れなかった。

たねうさぎらしさとは何だろう。この世に1つしかないものなのに、らしさが際立っているのが不思議。

たねうさぎのとりとめのなさは、この頃編んでいるあみぐるみに通ずるものがある。目的もなくただ歩いている時の、散歩のような気分でかぎ針を動かしているような、感じ。目と鼻をつける時、あ、違う、この表情じゃなくてとやり直す。そう、この顔。この顔がこのうさぎらしさ、と納得してみたり。並べてみると皆違う顔だけどね。

何はともあれ可愛いと言ってもらえるものが生まれたのなら良かったし、嬉しいし。それはなんとなく良い兆しのような感覚でいます。

令和ってどんな時代なんだろう?

時間の流れがゆったりとしている時代かな。

そうだといいな。

糸紡ぎも編みものも

織物も縫いものも

ゆったりとしながらすすものだから。

日々を心地よくいられるといいな。

たねうさぎに想いを馳せたら思ったことでした。

 

 

 

 

母と子

つい最近見たさくらももこの漫画のひとコマが

すごくすごく共感できる台詞でした。

無邪気なコジコジの問いかけに、赤ちゃんにミルクをあげながらももこは言う。まる子も言う。

  コジコジ「おかあさんになるってどういうかんじ?

  子供のために人生ささげるってかんじ?」

  ももこ「冗談じゃないよ

  わたしの人生はわたしのものだよ

  この子の人生とは別モノだからね

  でも仲よくしていきたいね」

  まる子「そうそう

  仲よくするのが一番だよ」

顔の似ている息子が泣いているのをみていると、まるで泣いている自分をみているような錯覚になって胸がキュウと苦しくなることがあります。とても不思議な感覚です。

私の目の前にいる小さなひとは、私の息子でひとりのひとで。その存在はとても愛おしく。

まだこの小さなひととの暮らしは二年足らずで、その間にもたくさん色々なことがありましたが、それはこれからもずっと続くこと。日々分からないことが出てきて、上手く対応してあげられたのかも分からない。教えたり教えられたり。

母と子の関係半々、友だちのような関係半々みたいな、ずっと仲よくいたいと思っています。

 

 

 

 

北の暮らしの思い出

 

真夜中にこどもの夜泣きで目が覚めてから寝付けなくなってしまい、静かになった部屋でひとりiPhoneを眺めていたら、二年前に行った水族館の写真を見つけました。

水族館プティ。名前の通り小さな水族館で、確か遅い時間に立ち寄った道の駅の中にありました。

日中は海面が凍るほどの極寒の中、漁港で釣りをして(臨月なのに)、町の小さな釣具屋さんでやっと手に入れた塩イソメに興味を示す魚は居るはずもなく。だけど大きなお腹を抱えて転ばないように雪の上を歩いたり釣れないと分かっていながらシャーベットみたいな海に釣り糸を垂らしたりしたことは思い返せばいい思い出。

厚岸はあっけしと読みます。北海道の地名は読みにくい漢字が多い。厚岸も最初はなかなか読めなかった地名。道東の沿岸にあり、牡蠣が有名な町です。三陸の牡蠣は大きくて磯の香りが濃いですが、厚岸の牡蠣は小ぶりでさっぱりしているので何個でも食べられてしまう危険な美味しさがあります。

水族館プティには牡蠣の殻が成長していく展示がありました。綺麗に並んだ貝殻と、什器のピンクと水色との配色がとても可愛らしいなぁと思って写真を撮った記憶があります。壁の展示も、手前に置かれた三角の階段のような物が、シンプルに境界を示していて素敵でした。

北海道の暮らしのひとこま。

また機会があれば思い出とともにこちらでふりかえりますね。

 

 

これから

 

機から離れている時間がこんなに良いものだと気付いたのは自分でも驚きでした。岩手に長期滞在するために大きな高機を北海道に置いていかなければならないことになり、その時は本当に寂しい気持ちになりました。お守りのように持ってきた杼ももちろん使うことなくダンボールにしまい込んだまま。だけど不思議とだんだん開放的な気持ちになっていきました。数年ぶりの岩手で変わらない空気感に身をゆだねて、ホームスパンを通して出会った友だちとの再会、手持ちの少ない道具と材料での手仕事、柚木沙弥郎さんの展示をみたりホームスパン作品をみたり。色々な布に目を向ける時間。

この頃小さな布を織ることが多かったと思い返しています。布を裁断することがあまり好きではないのでマフラーやショールみたいにカタチのあるものを織ってきましたが、大きな布を織りそれで何かを作ってみたい、そんな思いがふつふつと浮かんできています。そう思えたのは、環境を変えて織りに対してのゆとりができたからかな....。

今は道東に住んでいた時に貰った羊の毛を紡ぐ準備をしています。量があるのでたくさん糸を作って、大きな布を織ろうと思います。ひとつの夢です。

 

 

 

手しごと日和

自分で紡いだ糸で編みものをすると、織りとは違う視点で糸にふれられるような気がします。

この頃はかぎ針で小さなうさぎのあみぐるみを編んでいます。ほんの少し糸に太いところがあるとその一目もほんの少し大きくなり、ほんの少し細いところはその一目もほんの少し小さくなって。“ あじ ”が出ます。

フレーム織りも然り。高機で緯糸を通すようなリズムは全く無いので、糸を見ながら一本一本ゆっくりと通していきます。時間はかかるけどそのリズムもまた心地良く...。

フレーム織りもかぎ針も小さな道具で完結するので、手を動かしたり急にとめたり、立っても座ってもできるから家のことをしながらするのにちょうど良い。

高機に座れなくても、今の暮らしの中で糸にふれる時間を作っています。

次に機たてする時が来たら、大きな布を織りたいなぁと思います。それは以前のようなパタパタ早いリズムではなく、糸に向き合い、ゆったりとした時間の中で、織ることができるような気がしています。大らかな布になりそうな気がしています。

そういう布を織りたいなぁ。