日々のこと」カテゴリーアーカイブ

大人とは

小学生のころ、早く大人になりたかった。早く20代に。早く30代に。早く40代になりたかった。大人になればこのもやもやが晴れると思っていた。

なのに、学校を卒業しても、社会で働くようになっても、その願いはなかなか叶わなかった。

それが、何故かいま、ようやく終わったと最近気付いた。同時に、気付くのが遅かったとも。思い返すと時代を謳歌した思い出があまり無い。遠い未来にばかり想いを馳せていたせいかもしれない。心ここに在らず。常に足が地面からちょっと離れた感覚。

わたしにとっての「大人」は、ただ年齢を重ねた人のことではなくて、世界中に散らばっているかけら、今生きていくために必要なかけらを、感じて、受け入れ続けた人だったのかもしれない。

「かけら」は、ある日のできごとだったり、出会う人だったり、場所だったり空気だったり食べるものだったり使うものだったり、いろいろ。本当にいろいろ。それが自分に合っているかどうかも重要。

ここ数年、外に向いている意識を内にすることを続けてきた。いつもそうするのは難しくて、いつもいつもできるわけではない。せっかくいい調子だったのに、落ち込んだり体調を崩したりうまくいかない事はたくさんある。その度に外に散らばってしまった氣持ちのかけらを中心にもどすような作業をこつこつしてきた。

この気づきのきっかけをくれたのは子育てかもしれない。この子は何が好きで何が苦手?嬉しい?悲しい?笑っていたかと思えばあっという間に泣き始める。気持ちにまっすぐな子ども。表情、体調、動き、雰囲気、小さな身体から発せられるエネルギーのサインを観察しているうちに、「自分を知ること」「受け入れること」が身についてきたのかもしれない。

この文章、もしかしたら自分にしかわからないかもと思いながら、それでも文字にしてみた。

もう早く大人になりたいとは思わない。もや は晴れていて、今を見つめている。

あたらしい事ができそうな気がしています。

 

 

 

 

いま

内側からわきおこるチカラがこの頃ぜんぜん感じられない。こういう時どうしたら良いのかは、もうとっくに分かっているのに勝手に進めないでいるのは、なんでなんだろう。すごくすごく停滞している。

ゆっくり振り返る。

初めての土地で迎えた冬の暮らしについていくこと。雪の多さ、風の脅威、空の暗さ、家族の怪我、自分の体調不良。いっぱいいっぱいになっていたのかもしれない。

体力的に疲れが溜まって、いつしかそれが気持ちのほうにまできてしまったのかもしれない。

屋根から雪崩れる雪の大きな音を聞きながら、ここに記す作業が自分をすこし癒してくれることに気付く。

今これからどうしていきたいのかな?

物を手放す。部屋を掃除する。好きなものを集める。糸を紡ぐ。布を織る。理想的な暮らしは実行に移さないからいつまでも理想のまま。現実にするための行動力が必要。そうそう、そうだった。行動にうつすチカラ、続ける努力。まだまだやりたいことがある。新しい土地でのイベント出店もしてみたいし、織物を通じて新しい出会いもしていきたい。そうそう、がんばれ。自分にエールをおくってみる。できる、できるよ。

記すと叶うこともある。

 

新しい風を感じたくなって描いたミルクの絵。アイコンにしてみた。自分らしい物作りをもっと深めていきたい、今日このごろ。

 

 

 

記憶の中の、たねうさぎ

学生だった頃か、もう少し前だったのか後だったのか。いつだったかはっきり覚えていない記憶の中に、たねうさぎはいます。

昔、椿の種をひとつ包みこむようにしながら、毛糸をうさぎのかたちに編んだことがありました。紡いだ糸だったかどこかで購入した糸だったかも忘れてしまったけど、ゴワゴワとしていて、中綿も何もなく、ただ椿の種がひとつ入っているだけのうさぎ。指の先ほどの大きさで、目も鼻もない。しっぽのようなふくらみから胴体、顔らしきもの、少しのびた2つの耳。同じ毛糸で編んだ鎖編みの紐がついて、ストラップになっていた。

可愛いとは言い難い存在。可愛くないところが可愛い存在。

そんなたねうさぎは、私の姉がもらってくれた。たねちゃんと呼んで携帯電話のストラップにしていた。無機質な携帯電話に素朴なたねうさぎは似合わなかったけど、それがたねうさぎらしくて良かった。同じようなものを23個作ってみたけれど、たねうさぎのようには作れなかった。

たねうさぎらしさとは何だろう。この世に1つしかないものなのに、らしさが際立っているのが不思議。

たねうさぎのとりとめのなさは、この頃編んでいるあみぐるみに通ずるものがある。目的もなくただ歩いている時の、散歩のような気分でかぎ針を動かしているような、感じ。目と鼻をつける時、あ、違う、この表情じゃなくてとやり直す。そう、この顔。この顔がこのうさぎらしさ、と納得してみたり。並べてみると皆違う顔だけどね。

何はともあれ可愛いと言ってもらえるものが生まれたのなら良かったし、嬉しいし。それはなんとなく良い兆しのような感覚でいます。

令和ってどんな時代なんだろう?

時間の流れがゆったりとしている時代かな。

そうだといいな。

糸紡ぎも編みものも

織物も縫いものも

ゆったりとしながらすすものだから。

日々を心地よくいられるといいな。

たねうさぎに想いを馳せたら思ったことでした。

 

 

 

 

母と子

つい最近見たさくらももこの漫画のひとコマが

すごくすごく共感できる台詞でした。

無邪気なコジコジの問いかけに、赤ちゃんにミルクをあげながらももこは言う。まる子も言う。

  コジコジ「おかあさんになるってどういうかんじ?

  子供のために人生ささげるってかんじ?」

  ももこ「冗談じゃないよ

  わたしの人生はわたしのものだよ

  この子の人生とは別モノだからね

  でも仲よくしていきたいね」

  まる子「そうそう

  仲よくするのが一番だよ」

顔の似ている息子が泣いているのをみていると、まるで泣いている自分をみているような錯覚になって胸がキュウと苦しくなることがあります。とても不思議な感覚です。

私の目の前にいる小さなひとは、私の息子でひとりのひとで。その存在はとても愛おしく。

まだこの小さなひととの暮らしは二年足らずで、その間にもたくさん色々なことがありましたが、それはこれからもずっと続くこと。日々分からないことが出てきて、上手く対応してあげられたのかも分からない。教えたり教えられたり。

母と子の関係半々、友だちのような関係半々みたいな、ずっと仲よくいたいと思っています。

 

 

 

 

北の暮らしの思い出

 

真夜中にこどもの夜泣きで目が覚めてから寝付けなくなってしまい、静かになった部屋でひとりiPhoneを眺めていたら、二年前に行った水族館の写真を見つけました。

水族館プティ。名前の通り小さな水族館で、確か遅い時間に立ち寄った道の駅の中にありました。

日中は海面が凍るほどの極寒の中、漁港で釣りをして(臨月なのに)、町の小さな釣具屋さんでやっと手に入れた塩イソメに興味を示す魚は居るはずもなく。だけど大きなお腹を抱えて転ばないように雪の上を歩いたり釣れないと分かっていながらシャーベットみたいな海に釣り糸を垂らしたりしたことは思い返せばいい思い出。

厚岸はあっけしと読みます。北海道の地名は読みにくい漢字が多い。厚岸も最初はなかなか読めなかった地名。道東の沿岸にあり、牡蠣が有名な町です。三陸の牡蠣は大きくて磯の香りが濃いですが、厚岸の牡蠣は小ぶりでさっぱりしているので何個でも食べられてしまう危険な美味しさがあります。

水族館プティには牡蠣の殻が成長していく展示がありました。綺麗に並んだ貝殻と、什器のピンクと水色との配色がとても可愛らしいなぁと思って写真を撮った記憶があります。壁の展示も、手前に置かれた三角の階段のような物が、シンプルに境界を示していて素敵でした。

北海道の暮らしのひとこま。

また機会があれば思い出とともにこちらでふりかえりますね。